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親の心、子知らずの典型が私です

父は、貧しいながらも精一杯頑張って、自分の家を建てました。しかし、畳が無い、建具がない、天井がないといった中途半端なもので、トイレも外だったし、雨風を防ぐのがやっとという家でした。

しかし、私にとっては、それが当たり前だったので、「うちは貧乏だ」と意識することはありませんでした。

小学生の頃、ローラースケートが流行ったことがあって、友達の遊びの中心は、ローラースケートでした。私がローラースケートを欲しがっていることを母づてに聞いた父は、直ぐにローラースケートも買ってくれました。

今思うと、「生活が苦しいのに、無理したんじゃないのかなぁ」と、心が苦しくなることがありますが、貧乏だから・・・といった卑屈な思いは、一度もしたことがありません。

それだけ、父も、母も、頑張って、私を育ててくれたのだと思います。

逃げてばかりの私の人生

そんな両親の思いとは裏腹に、勉強嫌いの私は、いつも勉強から逃げてばかりでした。悪戯も相当にしました。今でも、ヤンチャな雰囲気が残っていると友達にはからかわれますが、子供の頃の悪戯は、ちょっと半端ではありませんでした。

火遊びが元で、公民館を燃やしてしまったこともあります。消そうにも消せなくなった火が怖くて、私はその場を逃げ出しました。
今でも、その時の恐怖は忘れられません。

誰にも見られていないと考えるのは、子供心というもので、誰がやったかは、近所の人は、知っていました。その夜、家に警察が来ました。学校に呼び出しもあって、授業中に何度も警察に行きました。私は、怖くて、怖くて仕方がありませんでした。

しかし、父も、母も、「そのこと」に関しては、一言も触れず、叱りもしなかったのです。

焼失した公民館は、父が中心になって、地元の大工仲間で建て直しました。
私は、いまだに「その時のこと」の詳細を聞けずにいるのです。だから、キチンと父に謝ることも出来ていないのです。

勉強なんて、大嫌い!

 

建築関係の学校に行ってはどうかと勧めてくれた先生の言葉を無視し、私は普通の工業高校に進学しました。真面目一方で、いつも働いている父のような仕事はしたくなかったのです。

高校に入っても、相変わらず勉強が嫌いで、不真面目な生徒でした。

しかし、高校1年の夏休み、「忙しいから手伝ってくれ」と父に頼まれ、大工仕事を手伝いました。当時は、アルバイトといっても、ろくに仕事がなかったので、小遣い欲しさに手伝っただけでした。

それが、私の大工経験の最初でした。

勉強が嫌で、大工になりました

それは、就職試験を受けたくなかったからです。勉強嫌いの私は、成績も良くないし、就職試験を受けても、どこも採用してくれるとは思えなかったのです。

高校生活の3年の間、家業の大工仕事を手伝ったこともあって、「家業を継ぐ」のもいいかも? と、考えたのは、実は、これなら、就職試験を受けなくて済むという逃げの姿勢だったのです。

いつも、逃げてばかりの情けない男だったと、思います。

初めて、男の生き方を学びました

 

親子といえども、仕事としてやる以上は、「父に弟子入り」したことになります。

真面目がとりえの父は、地域の人からも、深く信頼されていました。口数も少なく、温厚で、几帳面な性格です。

そんな父に、初めてとも思えるほど、激しく怒られたことがあります。

それは・・・

ある家の「上棟」の日のことです。材料を加工して、屋根に上げておくように言われた私は、手伝いに来てくれていた親戚の人に任せっきりにしてしまったのです。

しかし、そのやり方が、良くなくて、父に叱られたのです。私は、私がやったのではないのに、何で、こんなに怒られなくてはならないのか? と納得が行きませんでした。しかし、父は、私に頼んだのに、「人任せにした事」、任せるなら、「きちんとやり方を教えて頼まなかった」ことを、怒っていたのです。

私は、それまで仕事をなめていました。そして、本当の仕事のやり方、男の仕事というものを骨身に染みて、学ぶことが出来ました。

父が、私に教えたかったのは、「自分の責任を果たせ!」ということでした。怒鳴られた一言の中に、その全ての意味が含まれていました。

本気の家づくり

 

一変しました。「いい家とは?」「いい仕事とは?」そんなことを考えながら、仕事に取り組むようになったのです。

私が大工になって、数年の頃、「大手住宅会社」の家づくりの仕事を手伝ったことがあります。「協力業者」という立場ですから、「言われた通りに作る」のが仕事でした。

しかし、床は合板フローリング、壁、天井はビニールクロス。ほとんどの柱が壁の中に隠れていて、和室の柱も、表面に薄い木が貼ってある修正材といった家ばかりでした。

これが、「本当にいい家なのだろうか・・・」私が、父から学んだ家づくりとは全く違っていました。

父と一緒に作ってきた家は、内装が全て「塗り壁」でした。しかし、大手住宅会社の建物は、全て洋室で、柱が見えません。私は、今までやってきたことが、全て否定されているような気になりました。

仕事のスピードが速いことが、「いい大工」の評価基準でした。
早くて安ければ、よい業者」と評価されました。

これでは「いい家」なんて出来る訳がないと思います。

階段が、不自然な場所に設置されていて、とても人が通れないような図面を渡されたこともありました。協力業者としてお手伝いしていた現場ですから、「余計なこと」は言ってはいけない立場でした。

しかし、お施主様は図面を見ても人が通れるか通れないかは分かるはずもありません。私は作り手として自分の納得いかない物は作りたくありませんでした。ましてや、使い勝手の悪い家になる事は目に見えているのです。

意を決して、お施主様と建築会社にこの事実を伝え、結局、私が提案した通りに設計が変更されました。驚いたことに、住宅会社も、設計屋さんも、「人が通れない」ことに気がついていなかったのです。

設計者は、常に建てる側の気持ちになって考えなければならない。いくら、注文住宅とは言え、建築基準法にのっとり、お施主様にとって不利益になる事はプロとして助言しなければならない、と、私は思います。

家と言うものは、図面ではこれが最高に良いと思っていても住んでみないと分かりません。住んでみて初めて不都合な部分が出てくるものです。

私は、仕事に厳しい父から、大工仕事を習ったので、現場を知っています。
使いやすい家」「住みやすい家」「いい家」というのは、どういうものかを知っています。

家を建てると言う事は、「一生に一度の大きな買い物」です。だから、我々、大工が本当に、いい家を作るべきなのです。私は失敗しない家造りの手助けしたいのです。

だったら、一級建築士の資格をとってやる

 

国家試験だし、大工として技術がある事が認められる素晴らしい資格です。

しかし、世の中には、あまり知られていないし、評価もされません。私にとっては、「建築大工一級技能士」の父が誇らしいのですが、誰も認めてくれないのです。

そして、腕に自信はあっても、「何の資格もない」私も同様、誰も評価してくれませんでした。何度、悔しい思いをしたかしれません。

だったら、一級建築士の資格を取ってやる」と、あれほど勉強嫌いの私が、最難関の資格試験に挑む決意をしたのです。技術と資格の両方がないと、社会的には評価されない。だったら、取ってやると、とんでもない決意をしたのです。

あれほど勉強したことはありません。そして、もっと学生時代に勉強しておけば良かったと後悔もしました。嫌で逃げていた「構造計算」の勉強なんかも、頭が変になるほど大変でした。

しかし、二級建築士、一級建築士と、年数は、かかりましたが、目標通り、一級建築士の資格を取得することが出来ました。

「合格」の知らせが来た時には、正直、涙がでました。それほど必死だったのです。

私は、一級建築士の資格試験を通して、「人間は目標があると行動する」と言う事を覚えました。今考えると、学生時代の私は、勉強が嫌いと言うよりは、勉強のやり方がわからなかったのだと思います。

苦労が実りました。これで、私のことを「単なる大工」と思う人はいません。現場が分かって、実際に、大工仕事も出来て、一級建築士の資格を持っている人なんて、そんなに居ないからなのです。

少年の頃の懺悔とお詫び

 

昼間は大工の仕事、しかし、火災になれば昼夜関係なく消火活動をしました。

私が、入団してまもなくの頃です。地元で建物火災が発生しました。私達はいち早く現場にかけつけ消火活動をしました。後日、その火災にあった方と町内会長さんが私達を訪れ「地元の消防団の皆さんにいち早くかけつけて頂きありがとうございました。延焼も無く一軒だけですみました。本当にありがとうございました。」とお礼を言われました。

自分の家を無くされたにもかかわらず、私達に感謝のお礼を言いに来たのです。消防団活動はボランティアです。この時人から感謝される喜びを知りました。自分だけの喜びよりも、人から喜ばれる事が自分にとって何倍もの喜びでした

しかし、私が消防団に入った本当の理由は、小学校の頃、公民館を焼いて、地域の皆さんに大変迷惑をかけてしまった罪滅ぼしがしたかったのです。

そして、「そのこと」を、一言も攻めない父への感謝とお詫びでもあるのです。

大工様と呼んで頂ける仕事に感謝

 

お施主様宅のおばあちゃんから、まだまだ小僧だった私が「大工様」と呼ばれました。

仕事も満足に出来ない頃です。孫にもあたるような年齢の私に向かって「様扱い」を、して下さったのです。

私は、「大工」という仕事を、尊敬してくれる「おばあちゃん」の一言に、涙が出るほど嬉しい気持ちになりました。確かに大工は、聖徳太子の飛鳥時代には、「左官」と同様、「右官」として宮廷に出入り出来た誇り高い職種であったとも聞きます。

私は、「一級建築士」としての知識と、大工として30年以上の経験があります。現場で学んだ知識と豊富な経験を生かす事が出来ます。しかし、大工という仕事に、誇りを持てるのは、修行時代の小僧の頃に、おばあちゃんに、呼んでもらった「大工様」という言葉が原点になっています。

一級建築士としての私は、自ら設計し図面を書き構造計算をします。天然の木は工業製品と違い、強度が一律ではありません。木の素性を見て総合的に判断します。これは、大工の経験が実に生かされているところなのです。

オヤジへの恩返し

 

厳しく大工仕事を教えてくれた父、火事のことで一言も責めなかった父、その父は、今、2度目のガンと闘っています。

51歳にもなって、いまだに独身の私は、過去に大きな失恋があって、いまだに結婚できずにいます。仕事が忙しく、出会いがないのも原因の1つですが、気がついてみれば、今の年齢になっていました。

しかし、仕事には、絶対の自信があります。ガンと戦う父に代わって、今は、内山建築の2代目として、家業を引き継いで、頑張っています

そして、40代の素敵な女性との出会いも、期待しています。(笑)

見掛けは年寄りに見えますが、これは現場で鍛えた男の顔だと自負しています。設計も現場も全て分かります。今は、全て私が取り仕切っているのです。

内山建築は、地域の家守り

これからも地域の「家守り」として、末永く頑張る決意でおります。

小さな工務店なので、大手のような立派な住宅展示場も、立派な事務所もありません。営業マンもいません。しかし、腕に自慢の大工や職人がいます。そして、私は、一級建築士の資格を持つ大工棟梁です。

建築業組合でも、長年、役員を務めています。

父の誠実さと、几帳面さを受け継ぎ、2代目棟梁として、地域に貢献していく固い決意をしています。

目標を持てば、達成できる」ことを、今の私は知っています。
そして、本当にいい家とは、どんなものかも知っています。

私は、本物の素材を使った、本物の家を作りたい!
お客さんにとって、本当に「いい家」を作ってあげたい!

そう心底願っています。

追伸

今は、工業製品が発達してそれに代わるものも出来てきました。しかし、本物にはかないません。

私は多くの人に本物の自然素材を知って欲しいのです。本物に触れて欲しいのです。そして、家族全員が幸せになってくれる事を望んでいます。

私は、父から「木と語らう心」を受け継ぎました。これは、本物の木を使わないと分かりません。多くの人にこの本物の素晴らしさを是非味わってもらいたいのです。

私は本当に木造建築が大好きなのです。

本音で向き合う2代目棟梁 一級建築士 内山 孝
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